大正と浅草オペラ

浅草オペラをご存知ですか?

おそらく聞いたことがない方が殆どだと思います。

浅草オペラという言葉からは、浅草の歴史あるお寺でイタリアのオペラ歌手が歌っているようなイメージでしょうか?浅草とオペラの組み合わせ、ちょっとミスマッチに感じますよね?

 実は、浅草オペラとは、大正時代(1912〜1926)の折衷的な環境の中、東京の浅草で上演され、一大ブームを起こした独自のミュージカル・オペラ・演劇のことです。オペラといえばヨーロッパのイメージですが、浅草オペラの独特な世界観は他には見ない、とても素晴らしいものでした。魅惑的だが見過ごされがちな大正の世界と、当時の文化の変化の様子を垣間見ることができます。

では浅草オペラやその背景にある大正時代についてもう少し詳しくお話ししましょう。

明治(868-1912年)、昭和(1926-1989年)、さらには平成(1989-2019年)の近年の日本の歴史の中でみると、大正時代は比較的短い期間であり、やや目立たない時代になっています。 第一次世界大戦の終結と、1923年の関東大震災で当時の東京本土の大部分(浅草のほとんどを含む)が破壊されたという2つの大きな出来事が、大正時代の歴史を占めています。

この時代、人々は第一次世界大戦の終わりを祝い、平和を望んでいました。(この時、まさか後に第二次世界大戦が起こるなどとは思いもよりませんでした…。)

日本は江戸時代以前の何世紀もの間、世界から孤立していましたが、大正天皇の父である明治天皇は、外国からの影響を受け入れ、日本の近代化への道を開きました。 この姿勢は大正時代まで続いたため、2つの時代がひとまとめにされてしまうこともあります。 ただし、2つの時代には大きな違いがありました。

まず一つには、明治時代における近代化は、上から強制されたものでした。 明治政府は、国を「文明と啓蒙」への道に押し進める為、度々残忍な手段を用いました。一方、大正天皇は生誕時より体が弱いことで知られており、あまり国民に注目されていませんでした。 その結果、権力は分散化し、自由化していきました。 労働組合、政党、参政権運動、文芸社会など、これらはすべて「大正デモクラシー」と呼ばれる政治的運動や自由主義的な運動が盛んであったこの短い期間に出現しました。

もう一つの大きな違いは、世代交代が起こったことです。 大正時代に文化や社会で活躍していた人々や、新しい大衆文化を推進してきた若者たちには、明治以前の日本の記憶がありません。 彼らは日本が西洋文化へ転換していった時代に生まれ、それは、彼らがそれについて批評したり、彼ら自身の理解を発達させることができたことを意味します。

大正時代、東京の人々は、ニューヨークや世界の他の主要都市と同様に、1920年代という非常に衝撃的な変化を体験しました。モダン日本文化とマスメディアは、独自の新しいスタイルのファッション、アート、文学、エンターテインメントなどを生み出しました。これらはすべて、日本と西洋の両方の要素をユニークに融合させたものです。

日本の演劇と娯楽の中心は浅草でした。浅草寺は東京で最も古いお寺として有名ですが、当時の演劇文化の中心となったのはまさにこの界隈でした。

このエリアは浅草六区と呼ばれ、12階建ての凌雲閣がそびえ建つ通りには、劇場や映画館が数多く立ち並び、ペラごろと呼ばれる熱烈な劇場ファンが集まる浅草オペラの発信地でした。

日本初の電動式エレベーターが設置され、東京のランドマークタワーであった凌雲閣でしたが、1923年の関東大震災で修復不能な被害を受け、解体となりました。

江戸時代(1603〜1868年)に徳川幕府によって京都から江戸(東京)に首都が移されたときから、浅草は主要な劇場と娯楽の中心地でした。 江戸の西側は武家の所有地とされ、東側には商人、職人、農民などの庶民が暮らしてました。

この東側の地域の、特に浅草・吉原の辺りの花街には、娯楽の為の施設である芸者屋や歌舞伎劇場が多く集まり、繁栄していきました。

先ほど述べたように、明治政府は日本の社会や文化を上から、時には強引に動かそうとしました。これは演劇にも当てはまり、 政府は日本の演劇、特に歌舞伎を厳粛化し、西洋の演劇に引けを取らない芸術作品として発展させ、元来の歌舞伎にあった大衆文化的要素や自由な独創性は封じ込められてしまいました。

大正時代に入り、政権の全般的な緩和もあったことにより、明治時代の強引な抑圧にうんざりしていた劇作家、監督、プロデューサーなどの多くの人々のクリエイティブ性が一気に解放されていきました。 ともあれ、厳粛化されてしまった歌舞伎をまた以前の形へと戻すのではなく、彼らは代わりに西洋の演劇とオペラに目を向けました。もっと正確にいうと、彼らは歌舞伎が何であったかに着目して西洋の演劇を再解釈し、そこに日本の大衆文化と通俗的なユーモアを取り入れることにしました。 そのように生み出されたのが、浅草オペラでした。

浅草オペラは、大正時代に浅草で上演された様々なタイプの芸能の総称で、かなり幅広い解釈を含みます。 これは私たちが今日イメージするオペラとは違うもので、どちらかというと、バラエティショーや寄席演芸、キャバレーに似たものでした。歌う歌詞は面白おかしく、気楽で、単純。 中には、脚本なしの即興劇、歌、ダンスなどや、また、アメリカやヨーロッパの有名作品(サロメ、椿姫、地獄のオルフェなど)のパロディなどもありました。

大正時代の浅草のアートシーン全体は、デザインと舞台芸術の両方において、チューリッヒ、ベルリン、ニューヨークを拠点とするダダイズムの影響も受けました。 ヨーロッパのダダイズムと日本のエログロナンセンス(「エロティックでグロテスクでナンセンス」–大正時代の浅草の演劇界を説明するために使用された表現)は、完璧にマッチしました。

浅草オペラは日本の文化に大きな影響を与えました。 政治的および社会的風土の変化により、俳優の職業は女性に対してよりオープンになり、今でも多くのファンを持つ「宝塚歌劇」のような、すべて女性のみで構成される劇団さえ誕生しました。

また、松井須磨子の様な独立を求めた多くの女性は、劇場でキャリアを積むことができました。 これらの女優の周りに形成された、熱狂的なファングループであるペラゴロは、現代のアイドル現象の前身です。 劇中で使われた曲はスマッシュヒットとなり、「コロッケの唄」や「カチューシャの唄」などは日本で最初のポップソングの一部になりました。

しかし残念なことに、現在では、浅草オペラの痕跡を殆ど見ることができません。 1923年9月1日に起きた関東大震災により、浅草を含む東京の東側は壊滅的な被害を受け、劇場も使用不能となりました。続く余震と復興の中、多くの人々が、地震は、退廃的で不道徳になった日本社会に対する天が下した罰であると考えるようになりました。 そして、皇太子裕仁親王の元で統治された政府は、芸術家や演劇プロデューサーの自由な表現や創作の引き締めに取り組み、それは1926年に天皇に即位した後、一層強まりました。 

その為、浅草オペラは復活することなく、惜しくも消滅してしまったのです・・・

このような大正時代の時代背景と浅草オペラは、街歩き謎解きの新作『大正ミステリー 消えた鐘を探せ!』を制作中であった私達にとって大変興味深いものであり、多くのインスピレーションを与えてくれました。当時の研究をしていると、大正時代や浅草歌劇場での創造性に驚かされました。 

私たちの新作の物語の舞台は、まさにこの時代のど真ん中。1922年の東京、戦争が終結し、街に活気が戻り、人々が希望を持ち始めた時代でした。そんな中、平和への願いを込め開催されようとしている「東京平和記念展」から、大切な鐘が何者かによって盗まれてしまうのです。皆さんにお願いです!犯人をつきとめ、無事に鐘を取り戻すため、浅草の街を巡り、全ての謎を解明して下さい。 

このパズルゲームを通し、この時代について少しでも多くの事を学んでいただけたら幸いです!

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